『東日本大震災』について。忘れたくないので備忘録。
2011年3月11日(金)。15時前後と記憶。会社で遅めの昼食をとっていると、地震が発生。すぐにおさまるだろうと食事を続けど、揺れは増すいっぽう。なにやら家具が心配になり、大事とも思ったことのない棚を押さえてみる。しかし揺れは止まらない。
社屋が左右に大きく揺れる。それはまるで、テレビで見る、あの、地震実験のよう。棚の上に積んであった備品が散乱し、音を立てて床に散らばる。いよいよ揺れは頂点を極め、棚なんぞに構っていられない状態に。生まれて初めて、本気で死を覚悟する。
だんだんと揺れはおさまり、ようやく地震が止む。しばらくの間、声を発することができずに呆然。震度が気になりネットでを調べてみても、情報を得られない。心配になって携帯を使って実家に電話する。が、繋がらない。
テレビをとおして地震の情報が入ってくる。震源地は東北近海。マグニチュードは8.8。震度は忘れた。仙台の津波の映像が流れ、尋常ではない事態と把握する。携帯ではいっこう繋がらないので、会社の電話から実家に連絡を試みる。やはり繋がらない。
家に誰もいないのだろうと判断。連絡先を父親、妹の携帯に切り替える。ぜんぜん繋がらない。友人らにも繋がらない。仕方が無いので、ツイッターで妹に向けてメッセージ。数十分後、無事との返信があり一安心。
自宅への電話を続けると、父親が応答。家の中が散らかってはいるが、怪我は無いとのこと。同時に、祖母と叔父、叔母の無事も確認する。この時点で19時。会社の終業時間だが、首都圏の電車はのきなみ運休。泊まる気満々でビールを買い、飲む。不謹慎。
テレビから、電車が止まって帰れなくなった人々が、歩いて帰宅する様子が流れてくる。東京の主用道路も大渋滞。その異様な光景に、地震の影響を改めて思い知る。車で出社している同僚や上司は、ニュースで渋滞の様子見。ひとりで酔う私は、やはり不謹慎。
24時を回ると、道路の渋滞はいくらか緩和。上司が、私のアパートの近くを通るから送るとありがたい進言を。酔ってる手前、さすがに遠慮しがたが、結局、甘える。渋滞につかまることもなく、1時間ほどで帰宅。アパートに被害はなかった。
翌、3月12日(土)。故郷、茨城県常陸太田市に帰ろうと考える。が、行って何ができるのかという気持ちが芽生える。食い扶持が増えてしまうのではと心配する。結局、線路に被害があるようで常磐線は不通。常磐道も通行止めと知り、断念する。
父親や妹、叔母、そして、連絡のついた友人と話すうち、常陸太田の被害状況が明らかになる。電気と水道は完全にストップし、道路は隆起。品物の流通はとどこおり、スーパーやコンビは長蛇の列。幸い、どの家庭も米の備蓄があり、食べ物には困らないとのこと。
3月13日(日)。友人らと電話で話し、常陸太田の電気が復旧を始めたと知る。やはり水は使えないようで、風呂に入れないし、トイレで用を足せないず大変と聞く。自宅では、飲料用は山の湧き水、トイレ用は祖母の家の井戸水を使用。すべて父親が調達。
東京では、食料品の買いだめが始まる。スーパーを訪れると、いつもは山積みの納豆がまったく無い。菓子パンも全滅。牛乳と米もわずか。東京でこの状態。被災地が心配になる。24時、常陸太田の自宅に、ようやく電気がもどる。
3月14日(月)。先の地震でダメージを受け、発電所は操業がままならない状態。電力不足が懸念され、計画停電が始まる。私の暮らす足立区、勤め先の豊島区は外れているが、電気の復旧したばかりの常陸太田が入っていた。さすがに後に外された。
計画停電のあおりを受けて、首都圏の電車の本数は少なめ。まだ不通の路線もある。しかし私が通勤で利用している東京メトロ千代田線、JR山手線は、大きな混乱も無く、普通に出社することができた。なんとなく申し訳なくなる。
そして今日、3月18日(金)。
地震から1週間経った。いまだ余震が続いている。計画停電も当分続くだろう。テレビからは、福島で起きた原子力発電所ので事故の様子が流れてくる。買い占めは社会問題になるほどエスカレートし、食料品のほか、日用品、ガソリンまで不足している。
被災地では、食べるものが無くてお腹を空かせている人がたくさんいる。飲み水が無くて困っている人がたくさんいる。ガソリンが無くて逃げられない人がたくさんいる。それなのに、足りているっていうのに、ためる人はもっといる。
今まで、どっかで災害が起こったとしても、大変だな、くらいしか思わなかった。家族や友人が被災して、初めて真剣に考えることができた。自分に何ができるのか、本気で考えることができた。
できることをやろう。ひとりじゃたいした事はできないし、思いつく事もほんの少しだけど、できる限り、やろう。
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